双極性Ⅱ型障害とCFS~病気を抱えてぼちぼち生きる!

仕事・結婚・出産・子育てと仕事の両立・・・と走り続けていたら、40代になって急に動けない体になってしまいました。

18歳の夏を過ごす息子と30年前の私

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フォークストン(イギリス・ケント州)

息子が過ごしている、かけがえのない18歳の夏。ある曲を聴きながら、自分の高校生時代を振り返って、大切な事を思い出した。

連日の酷暑の中を、息子は受験勉強で連日高校での補講、塾での講習で疲れ切ってはいるが、その間にも友人と花火大会に行ったり、ついでにカラオケで歌ったりして、上手くストレス発散しながら、夏休みを満喫しているようだ。

 

一度しかない18歳の夏。高校生という時間。自分なりに何か大切なものを見つけて掴んで欲しいと願っている。

そんな息子の姿にも触発されて、今日は病気や障害の日々の話ではなく、自分が若くて元気で生き生きとエネルギーを発散させながら生きていた時のことを、少し書きたいと思う。

 

ONE OK ROCKの「WE ARE~18祭」を動画で久々に見て、18歳の若者達の情熱溢れる合唱に心を揺さぶられ、自分の17歳の夏を思い出した。

英語が好きで、十代の内に何としても一度語学留学に行きたくて。短期でいいからとお金をこつこつ貯め、本で調べ(当時はインターネットなどという素晴らしく便利なシステムは無かったのだ…)、費用が安くて安全でなるべく日本人がいない語学学校を探した。

 

両親から反対されないよう、説得材料を完璧に準備して有無を言わせずここへ夏休みの4週間だけ行きたい!と、親を圧倒して希望を叶えた。

日本国内でさえ一人旅などしたこともない私が、生まれて初めての海外旅行を一人で、しかも当時はまだ英語もほとんど話せなかったので、まさに大冒険だった。

両親は最終的に良く行かせてくれたと、今でも感謝している。

 

留学手続は仲介機関を利用したが、現地のステイ先へは行き方を聞いて単独で辿り着いた。当時はソ連なる国がまだ存在し、欧州へ行くには北回り・南回りなる2種類の行き方があった。

なるべく費用を安く抑えたかったので、キャセイパシフィック航空の南回り便で18時間位かけてイギリスのガトウィック空港まで到着した。

途中の香港で乗り換え、バーレーンにトランジット経由し、アルプスを眼下に飛び越えて、ようやくついた初めての異国の地で、私は不安よりもワクワクしていた。

 

生まれて初めて「外」から日本を見た。イギリスに来たのに、イギリス人じゃない多様な国からの留学生達と出会った。

ルームメイトは15歳のスペイン人の女の子だった。モデルみたいにスタイルが良くて大人びていて、キャメルのタバコを吸い、耳にはピアスがきらめいていた。

別室には年上のスイス人(フランス語話者)がいた。

 

欧米各国だけでなく、中東からの留学生も多かった。どうやら申込んだコースが「サマーバケーションスクール」だったので、みんな「夏休みのバカンス+αでまあついでに英語もやっとこか」程度で参加していたようだ。「来年も来る?」とかお気軽に問われて、返答に詰まった事を鮮明に覚えている(あの頃1£=何円だったろうか…少なくとも2百円は越えていた)

 

極東の島国からなけなしの貯金をはたいて、決死の覚悟で参加している日本人なんて、彼らには理解の外だったろう。でも本当に楽しくて有意義な経験をいっぱいさせてもらった。この経験のおかげでスペイン語にも興味を持って、第2外国語で専攻した。

 

キラキラ輝いていた17歳の自分を思い出し、自分にそれだけのことをやってのけるエネルギーがあったのだということを、誇らしく思った。

今はもう、あの当時と同じ体力気力は持てない。でも。

 

やっぱり私が私らしく生きたいと願った、あの17歳の忘れられない夏が今でも私の原点。私を否応なく縛る家族・学校・社会規範・同調圧力等から逃れて、全く違う世界で全く違う言語と価値観を持つ人達に囲まれて、必死に英語で聞いて話して、いかに自分の置かれた世界がちっぽけかと実感したことを、私は今でも忘れない。

 

せめて精神の在り方だけでも、あの頃の原点に戻って、これからは一歩ずつ進んでいきたいと思う。身体の方は、なかなかついてこないけれど。

 

夏はあまり好きじゃない。でも最高の夏を経験した思い出は消えない。

今年も夏を迎えられたことに感謝!